カタルーニャ人とはどんな民族でしょうか?歴史を少しひもと いてみると、理解が深まることでしょう。
カタルーニャ人は、伝統的に、船乗りや商人など、商業に携わる人々が多い。長い間、地中海を支配してきましたが、現在は、カタルーニャ人は商工業などの輸出入の分野で成功を収めています。今は、もう航海をしながら商売をする時代ではありませんから。(笑)
紀元前一世紀に、カタルーニャ全土にはイベリア部族が住んでいました。紀元前550年にはギリシアから来た商人がエムポリオン(Emporion)という交易場を開きます。イベリア人はギリシア人とフェニキア人と、友好的に交易を行っていました。しかし、カタルーニャ地方を抑制したカルタゴ人たちの目的は交易34ではありませんでした。
カルタゴ民族は、ちょうどその頃、ローマを追放されて、イベリア半島に拠点を置こうとしている時期でした。彼らはローマ人と争うためにバルセロナ(2)を「戦争の基地」として利用するつもりだったのです。カルタゴの高名な将軍、ハンニバルは5万の兵と37頭の象を連れ、ピレネー山脈を越え、ローマを攻撃しました。ローマ人は大変怒り、イベリア全土(スペイン){バスク以外}(3)を侵略し始めました。
ローマ人はカルタゴ人を追放し、イベリアを支配しました。その後、タッラコ(Tarraco)を地方の首都としました。(Tarracoは現在のTarragona タラゴナローマ帝国が崩壊した後は、ヴィシゴート族(西ゴート族)(Visigots)がトゥルーズ(Toulouse)へ侵出し、イベリアを支配しました。ヴィシゴート族は ラテン語と似た言語を話し、ローマ法を遂行する民族で、瞬く間にイベリア半島を支配しました。ヴィシゴート時代の首都はトレド(Toledo)。その一方でイスラム人が南イベリアから北上し、その勢力を伸ばしていました。イスラム人はつ
いにバルセロナに到達し、フランスのポワティエ(Poitiers)まで攻め入りました。711年、イスラム人によりヴィシゴート族の最後の王が殺害され、ヴィシゴー ト王家は崩壊します。イスラム人はコルドバを首都としイベリア半島を征服します。生き残りのヴィシゴート族はピレネー山脈を越えフランスでは、カルラマニュ(Carlemany・シャルルマーニュ・カール大帝)がヴィシゴート族の力となりました。
801年にフランク人がバルセロナを支配し、イスラム人を南に退けさせました。
イスラム人によるカタルーニャ支配は比較的短期間に終わり、カタルーニャ文化もカタルーニャ語もスペイン語が受けたほどには、イスラムからの影響を受けませんでした(4)。
カルラマニュ(Carlemany・シャルルマーニュ・カール大帝)はフランスと今のスペインの丁度間の地域にイスパニック地域を築きました。イスパニック地域はピレネーからイスラム人が占領したスペイン南部地域までの土地で、バッファ州(中間地域)として意図的・戦略的に作られました。これによって、イスラム人の北上を防ぐことができました。その地域の支配者はその地方の人たちでした。東州で支配したのは、ギフレー・エル・ペロース(Guifré el Pelos)、彼
はバルセロナ、セルダニャ、コンフレント、オソナ、ウルジェイとジロナを支配しました。更に、彼はコウンツ王朝の始まりでした。
11世紀末にラモン・べランゲー 1世(Ramon Berenguer I)はヨーロッパの初めての憲法上政府を制定しました。Usatgesという人民の基本的人権に関する宣言を定めました。しかし、ベランゲー3世の時代にカタルーニャは拡大を
続け、タラゴナから今のプロバンス地方まで領土を拡大しました。1137年には、ベランゲー4世とアラゴンのペトロニラの結婚により両国が統合されました(5)。
13世紀末までにバレアル島やシチリアを征服しました。カタルーニャは勢力を強め、「Llibre del Consolat del Mar」という海上の法律を制定し、地中海の交易を支配しました。カタルーニャ人は海上でその力を発揮し、地中海を征服、他国より恐れられる存在になりました。特に、ロジェー・ダ・フロー(Roger de Flor)はアルムガーベルス(Almogàvers)というカタルーニャ人とアラゴン人の傭兵をリーダーとして、ギリシア・トルコまで攻め入りました。アルモガーベルスはギリシアの町を壊滅し、地図上から消し去ってしまいました。そのため、地中海沿岸でも特にギリシアではカタルーニャ人が恐れられることになりました。
この時代にはカタルーニャの文学にも発展が見られました。
ジャウマI世はLlibre dels Fetsという本を書き、またベルナット・デスクロット(Bernat Desclot)は1284年にカタルーニャ歴史の本を著し、この作品でペラ・エル・グランの1282年のシチリアの征服について書き表しました。又、詩人マヨルカ人のラモン・イウイ(Ramon Llull)は宗教的な文章にカタルーニャ語を初めて使いました。
更に、ジョックス・フルラールス(Jocs Florals)という詩のコンテストがバルセロナで行われました(6)。以来、カタルーニャ語が禁じられるまで続きました。1490年には、ジュアノット・マルテゥレイ(Joanot Martorell)のティランル・ブランク(Tirant Lo Blanc(7))という作品が登場しました。この作品は、中世のスペインで最も好まれた「騎士道物語」です。また、世界で一番有名な小説である、「ドン・キホーテ」の焚書の場面には、この作品を焚書から救う場面があるほど重要な作品です。
1479年にカタルーニャとアラゴンの王、フェルナンドII世とカスティリアのイサベルが結婚しました。この結婚により二つの王国が統合し、カトリック王によるキリスト教帝国が始まりました。1492年には、コロンブスが、アメリカ新
大陸を発見、スペインの領土は世界的に拡大していきました。(その時代、南米は「Las Indias」(ラス・インディアス)と呼ばれていました。)国内では、スペイン人はイスラム人を南スペインから追放することに成功しました。一方、カタルーニャには、ユダヤ人が多く居住し、銀行などの金融界を支配していました。当時、カタルーニャの銀行は、スペイン国王にもお金を貸し出ししていましたが、 結局、国王からは返済はなく、かわりにあったのは、「ユダヤ人の追放」でした。よくカタルーニャ人は、「けち」とか「お金にしっかりしている」といわれますが、それは、こんな時代背景からきているのかもしれません。
アメリカ発見から帰国しバルセロナに到着したコロンブスには、褒章としてセビリア(Sevilla)とカディス(Cádiz)が与えられました。カタルーニャは「ラス・インディアス(南米)との商売」を禁じられたため、カタルーニャのスペイ
ン中央への反感が高まりました。カトリック王の時代からスペインの中央政府はその勢力をどんどん強めていきます。
1618年から1659年までスペインとフランスとの間に戦争がおこりました。カタルーニャ人はこの時スペインに協力しなかったことから、スペイン中央政府はカタルーニャに軍隊を送り、大規模な被害をあたえました。そのため1640年にカタルーニャ市民は中央政府に対し反乱を起こしました。その時の歌(l’Himne dels Segadors)は現在の国歌です。バルセロナはフランスと同盟を結びましたが結果として敗北しました。この同盟は大失敗だったといえるでしょう。というのも、1659年に結ばれたスペインとフランスとの平和条約によりカタルーニャは北の地域(Perpignan, Perpinyàまで)を失ってしまいました(8)。
その後もスペインとカタルーニャの争いは続きました。ハブスブルグ王家とブルボン王家との争いでは、カタルーニャ人はハブスブルグ王家側につき、スペインの他地域はブルボン王家側につきました。1714年9月11日、最後の戦いにおいてバルセロナは陥落し、バルセロナ卿は、バルセロナを守りながら死にました。死の直前、自らの血にまみれた指で、カタルーニャの旗に四つの筋を描きました。これは言い伝えかもしれませんが、今のカタルーニャ旗は黄色と赤ですね。赤い部分はもともと血だったということです。
戦争で負けたカタルーニャは、ブルボン王朝のフェリペV世により、カタルーニャ政府の休止、カタルーニャ法の禁止、カタルーニャ語の禁止などの制裁を受けました。(Decret de Nova Planta)しかしながら、カタルーニャ民族は、家庭内で根強く自分たちの文化や言語を守り、古い世代から新しい世代にまで継承しました。
その象徴的な日、9月11日は「カタルーニャ国家の日」。「La Diada」(ラ・ディアダ)と呼ばれています。こうして歴史を振り返ってみると、カタルーニャ文化やカタルーニャ語を消滅させようとする動きがたくさんあったにもかかわらず、カタルーニャは、常に独自の文化を死守してきました。
次の試練はフランスとの戦争から始まりました。争いは1793年から1814年まで続き、ナポレオンは弟(9)をスペインへ送り、スペインの王としてスペインを支配しました。その頃、アンダルシア地方やカタルーニャ地方ではバンドレース
(Bandolers=山賊)と呼ばれる山賊が出現します。もともとはフランスの支配に対抗して生まれたものでしたが、その立場を利用して悪事を働く者もありました。{一番有名なのはアンダルシアのクッロ・ヒメネス(Curro Jiménez)でした。}
フランスの支配に対しては、民衆も果敢に立ち向かいました。バンドレースに対して民衆が抱くイメージはロマンチックなもので、特にカタルーニャ人にとっては思い入れがあるようです。バンドレースを題材にしたロマンチック物語がはやりました。
ルネッサンス時代(Renaixença)には、バルセロナは世界で有数の工業都市になっていました。特に、綿の製造業が大変広まっていました。ブルジョワシーは綿工場を持ち、サバデイ(Sabadell)とテッラッサ(Terrassa)にはたくさんの工場が存在しました。これらの綿工場は20世紀まで存続していました。
このルネッサンス時代に、カタルーニャ文化はもう一回生まれました。ボナベンテゥラ・アリバウ(Bentura Aribau)のOda a la Pàtria(10)という愛国の詩やジャシント・ベルダゲー(Jacint Verdaguer)の詩がうまれ、前述のジョックス・フルラールスと呼ばれる詩のコンテストが再開されたのも文化再生の助けとなりました。
この時期、ルネッサンスから、カタラ二スマ(Catalanisme)という文化的な運動も生まれました。これは「自治を得る」という運動で、ガリシア地方やバスク地方でも登場しましたが、カタルーニャではとくに盛り上がりを見ました。
1876年のカルリスト戦争でも国の中央政府とカタルーニャの争いは続いていました。その一方、1888年にバルセロナにおいて、世界的な展覧会が開催され、バルセロナは建築・芸術の革新の地となりました。バルセロナ市新市街・エイシャムプラ(Eixample)が整備され、アントニ・ガウディの建物や、グエイ邸で有名なアウセビ・グエイ(Eusebi Güell)というガウディの後援者たちなどが、バルセロナの現在のイメージを作り上げました。1929年にはバルセロナのモンジュイックで万国博覧会が行われました。
文化的な発展をとげる一方、政治的には、カタルーニャは、困難な時代に直面していました。
1914年に制定されたマンコムニタット(Mancomunitat)というカタルーニャ地方の政府は独裁者のプリモ・デ・リベラ(Primo de Rivera)によって解散させられました。その後、フランセスク・マシアー(Francesc Macià)が登場しますが、わずか3日間の短命に終わりました。3年後、イウイス・クンパニュス(Lluís Companys)も政府樹立をめざしましたが、警察に逮捕され、30年間刑務所で過ごすことを余儀なくされました。
1936年7月16日にフランコ将軍が共和国政府に対抗し、カタルーニャ地方にも、軍隊を送ります。このときに多くの人々がカタルーニャからフランスに逃げざるおえなくなりました。独裁者のフランコ時代には、再びカタルーニャ政府、カタルーニャ文化、カタルーニャ語を禁じられました。このときの弾圧は大変厳しかったのですが、60年
代以降、カタルーニャは経済的に復活しました。貧しいアンダルシア地方や他のスペインの地域から、スペイン人がカタルーニャに出稼ぎにきました。自分の地方では仕事がなく、経済的に豊かなカタルーニャに移住したのです。この移住してきたスペイン人たちもカタルーニャの経済復興を支えることになったのです(11)。70年代には観光地として有名になり、さらに発展していきました。
1975年にフランコが死去し、独裁制からデモクラシーへの移行が行われ、ブルボン王朝のフアン・カルロス国王の下、全国や全党の合意で民主的な議会君主制を組織し、1978年に民主的な憲法が誕生しました。カタルーニャにも独自の「カタルーニャ自治州憲法」が誕生しました。(2006年改憲)以来、カタルーニャ政府のラ・ジェネラリタットの下に、カタルーニャは固有の文化や言語を守っています。カタルーニャ初代大統領はジョルディ・プジョルでした。その楽しく気さくな人柄で人気がありました。
1992年には、バルセロナ・オリンピックが開催されました。バルセロナオリンピックは、カタルーニャ民族、特にバルセロナの市民にとっては、「新しいルネッサンス」でした。多くの市民はボランティアとして様々な関連行事に参加し、皆で協力してバルセロナをもっと美しく(Barcelona posat guapa!「おめかししよう!バルセロナ」)というスローガンも生まれました。
オリンピックは、カタルーニャの文化や伝統を世界に紹介する絶好の機会だったのです。その時代を肌で感じた子供達(私も含めて)は、この世紀のイベントを通して、色々な文化を勉強し、吸収し、「もっと知りたい」という意志をもちました。その一方で自分達の独自の文化や言語を守り、「カタルーニャ人だ!」というアイデンティティーを持つことに喜びを感じています。
現在のカタルーニャは美術・アート・文化・言語などが世界の注目を集めています。2005年には、バルセロナでForum de les culturesという文化フォーラムが行われました。カタルーニャ人は固有の文化にプライドを持ち、自分達の歩んできた道を学び、守り続けます。
その一方で、新しい文化を発見することも得意な未来に開かれた民族なのです。
(2)バルセロナの名前はハンニバルのお父さんの名前から来ています。ハンニバルのお父さんはハミル・バルカ(Hamil Barca)と呼ばれていました。バルカから来ています。230年キリスト前にバルセロナで生まれました。その後、ローマ人はバルセロナをBarcinoと呼びました。他のカタルーニャの都市はラテン語でLleida-> IlerdaやTarragona->TarracoやManresa->Minorisaなど時代によって地名は変化しています。
(3)ローマ人はイベリア半島を占領しましたが、好戦的なスペイン北部バスク地方は占領することができませんでした。バスク語の起源は今だ不明とされており、その一因が、カタルーニャ語などと違い、ラテン語の影響を受けなかったことによると考えられています。
(4)スペイン語ではアラブ語派生の語彙が多数あります。例えば、一般的に、「Al」で始まっているものアラブ語派生。「Almohada」(枕)、「Alambra」(コルドバのアラムブラ)、「Guadalquivir」(グアダルキビル川、アラブ語からのUad el Quevirで、大きい川という意味)など。
(5)王妃ペトロニラは、婚姻時はまだ赤ちゃんでした。領土拡大のためには、二つの方法があり、ひとつは戦争、もうひとつは政略結婚でした。このケースはまさに後者です。
(6)Jocs Floralsという詩のコンテストは大変重要な行事となっていました。現在でも、カタルーニャ州の学校ではJocs Floralsのような感じの詩のコンテストがあります。コンテストの優勝者は、どきどきしながら、彼らが書いた詩を皆の前で読む習慣があります。
(7)インターネットで読めます!(昔のカタルーニャ語ですが)このリンクをチェックください: http://www.tinet.org/bdt/tirant/
(8)現在、Perpinyà地域までカタルーニャ語が使用されています。
(9)スペイン人はナポレオンの弟を「Pepe Botella」と呼びます。実の名前はJosephでしたが、あだ名として、スペイン風に、Pepe。Botellaの意味はビンです。彼はお酒、冗談的に皆はペペ・ボテイアと呼ばれました。
(10)インターネットでも、カタルーニャ語で読むことができます。リンクは
→http://personales.ya.com/muntanya/textos/odapatria.htm
(11)カタルーニャに来たアンダルシア人は特別な文化を作成しました。例えば、「rumba catalana」という新しいルンバ音楽のジャンルが形成されます。在カタルーニャのアンダルシア人はカタルーニャ文化にアンダルシア文化をミックスし、ユニ-ク的な文化を作りました。アンダルシア地方特有の行事である、「Semana Santa」や「Feria de Abril春祭り」も行われます。また、言語的にも、特に若い移民の世代は、特別なカタルーニャ語のアクセントを用います。










